最近読んだ本:下條信輔著『サブリミナル・マインドー潜在的人間観のゆくえ』
下條信輔『サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ』中公新書、2012年
私は、20代のころ、デカルトに心酔していて、アラン、ヴァレリー、日本人では宇佐見英治といった人々の美術についての、人間についての考察を独学でずいぶん勉強した。真剣に考え、自分を作っていった。そのため、この本のような、人間の知覚に関する研究には、とても興味がある。
この本のはじめには、私には非常に魅力的な、次の命題が提示されている。
「人は自分で思っているほど、自らの知覚・情動・行動の本当の理由をしってはいない」
そして無自覚的な心のはたらきの総称、「潜在的な認知過程」について論じられている。本のタイトルの「サブリミナル(閾下)」とは、例えば、図形を数ミリ秒以下で繰り返し瞬間提示しても、「形が見えた」という意識経験は生じないことが知られている。このような、見える限界=識閾(しきいき)よりも下という意味だそう。
さらに巻末の方で著者は、「人ならだれでも示す好き嫌い、選択の意志といったものが、本人もあずかり知らない無自覚的な力に支配されているとするなら、その「力」の正体を解明したい考えるのは当然でしょう」と述べている。
毎年、私の美術史第1回目の授業で、私の言うことは決まっている。「美術史」の、「美術」の部分はあなたの感性、「史」の部分はあなたの知性です。美術史を学ぶには、感性と知性の両方が必要です、と。
「絵の見方がわからないんです」と言われることがある。その時私がまず言うのは、(何かの作品の画像を見せながら)「この絵は好き?嫌い?」「この絵のどこが好き(嫌い)?色?この人物?景色?」というように、絵との対話に案内していく。絵をパッと見て、好きか嫌いかなら、誰でもすぐ答えられるからだ。
ただ、すでに講師を20年もしていると、「好き」ってなんだろう、「嫌い」ってなんだろうという疑問がわく。1年間の授業の最後に「私の好きな美術作品」についての発表をする、という課題を出すこともある。誰がどんな作品を選ぶかは、この課題の楽しみでもある。選ぶ人と選ばれる作品の思いがけない組み合わせは、私を大いに喜ばせてくれる。しかし、〇〇さん「らしい」作品が選ばれることが多い。選んだ理由も、子供のころ家にこの絵の写真があったから、という答えもまた多い。あるいは「きれいだから」「かっこいいから」「これ、いいなぁ、と思って…」。
美術史家としていつも言葉にならない部分は必ずある。それこそ「美しい」の定義。さらには「いい」と思う理由は個人的なものなのか、育ち(経験)なのかという疑問。この本を読んだあとでは、知覚経験によるところがかなり大きいのではないか、と改めて思う。
同様に著者によると、「感覚でとらえることと、言語化されることの量を比較すると、言語化できるのは、感覚でとらえたことのごく一部」だそう。私自身の経験からもそう思う。
藝大で、かれこれ10年間も続いている仕事として、実技系の学生の博士論文の指導をしている。少し書きなれてくると、存外自分の作品を語れる学生もいる。日本のシステムでは、作品だけで、博士号は取れない。必ず論文が必要である。美術作品という極めて個人的、感覚的なものを審査するのに、私自身も論文はあった方がよいと考えてきた。つまり、作品=造形を見て、作者の感覚を、より正確に感覚的に受け取るには、言葉を媒体(言語を共通言語)とした方がよいと思っていたからだ。それなら作者の感覚からの逸脱がより少ないばかりか、作者の感覚に、観者が感覚的に近づけるからだ。
しかしこの本を読み終えて、―前述の博士号取得のための論文は別だが―いわゆるアート作品に、言語化された説明書(=論文)はいらないのではないか、と改めて思った。作者本人の説明=論文が、作品の本質を言い当てられることは、案外少ないのではないだろうか。50年後の人が見た方が、作者本人より的確なことが言えたりする場合もあるだろう(この本の最後の方の「ビルの中のねずみ」のはなし参照のこと)。これこそが美術「史」。歴史的なものの見方の醍醐味でもある。
このような、作者自身の思念でさえ超えて在る「美術作品」、その限界のなさこそが、美術の本質ともいえる。限りある「言語」では説明しきれない。(確かアランだったと思うが)「ある音楽について評論するなら、(言葉で言うのは無理で)音楽でするしかない」と読んだ記憶がある。
人間は、形や色から何かを感じ取れる「感性を備え」、「言語での思考」もできる。一つの存在の中で、この両方があることは、なんとすばらしいことかと思う。この二つは全く別の、無関係な二つの側面ではなく、実のところ一人の人間の中で密接に結びついているような気がする。そして一人の人間は身体と精神をもち、時間(経験)の中で生きるが、身体と精神は人が思っている以上に密接に結びついているのではないだろうか。そう思うから、私はこれまでの美術史研究だけでは十分ではなく、彫金や七宝の作品制作をしている。「見ること」と「つくること」は切り離されてはならない。
美術作品をつくるのが人間だから、あたりまえなのだが、美術は限りなく人間に近い。